人間の体の断面をイメージしてみてください。腸はパイプですし、血管もパイプです。パイプが縦横に体内を走り、人間の肉体を形づくっています。
パイプはものを流すためにあります。その流れを止めると、うっ積していき、苦しみが始まります。病も発生します。考え事をしていて出口が見えなくなると、人はよく「つまった」という表現を用いますが、流れるべきものが流れないという状態は、つまり、自分を強く意識するということ、なにかこだわるということです。
お金にこだわればお金の流れが止まります。意識にこだわれば、極端な場合、精神に異常をきたすことになります。名声にしても、地位にしても、美ぼうにしてもそうです。それらにこだわり、自分のところに止めようとする、握っていたいと思います。そうすると、苦しみが始まります。「苦」というものは、すべてそこに止まっているから生まれるものです。
「願う」「求める」「頼る」という心理も、この「意識すること」「こだわること」にあてはまることを知っておきましょう。形式に制約があればあるほど、そうした心理はなおさら強くなります。
このように、人間がパイプであることを忘れたときから、苦しみが始まります。
逆に、流れのままに生きる、生きていることに感謝できる、そのような状態になると、自然といろいろなものがわいてきます。泉のように、いいことも悪いことも、次から次へとわいてきます。
しかし、かまわずにどんどん流します。そして、流していることすら忘れて超越した状態が「空」の世界となります。
これが「般若心経」に託された真髄だったのです。
しかし、「空」になろうと思っては「空」になれなません。「なろう!」と思うと、流れが止まります。意識する自分がそこにいるからです。
流れを止めるもの。それが、「願い、求め、頼る」気持ちです。
従来の写経の限界は、神仏に求め、願い、頼み、知識の集約としてのお経を書き写すことにあります。自分の願いや頼みを実現するために、ご利益を得るために、お経を対象物にしてしまっては、「般若心経」を正しく活かしていることにはなりません。
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