「般若心経」は本来、自然のなかに生かされる人間の本来の姿を説いたものであり、そうなるために活用されるべきものであったはずが、時代の流れのなかで、いつしかそれを頭で解するだけの、ただのお経に仕立てあげられてしまいました。宗派によっても連綿と受けつがれる過程で教義が曲解される例はよくあることです。
書店に行けば「般若心経」の解説書が所せましと並べられています。それらも解釈のひとつにしかすぎないにせよ、それらを読めば、釈迦の説いた「般若心経」のおおまかな意味はわかるでしょう。
このサイトでは、「般若心経」につづられた文字の意味を追求する必要はまったくありません。その内容を知ったからといって、そう成れるわけではないからです。逆に、知れば知るほど、そうではない状況に苦悩が強くなっていってしまいます。

釈迦は、般若心経の意味を「理解しなさい」と言いたかったのでしょうか。それとも、そのように「成りなさい」と言いたかったのでしょうか。
決して想像に難くありません。

あなたがこれから実践される「超写経」とは、釈尊教典の最も優れた「般若心経」を知識として得る「心のお経」から、生活に活かす「心の行」とし、既存の形式にこだわることなく、願ったり、求めたりせず、大自然の大いなる営みのように「ただ繰り返し」、私たちがこの叡知を体現していける「行(ぎょう)」を行うものです。そして日常生活のなかで「般若心経」の知恵を表現している人間となるために、「行」を、かけひきなしにただ繰り返すなかで、それは「天の行」となり、大自然のリズムと初めて調和できます。
天とは、この大自然そのもの、心臓をただ動かしている大自然、太陽をただ動かしている大自然、この大宇宙をただつくっている大自然のことを指します。

この「般若天行〜はんにゃてんぎょう」が自分のものになることによって、大自然のリズム、大自然の法則と調和したとき、生活もそのように変わっていくのです。
この「変わる」というのは、「正常になる」ということです。「正常になる」ということは、「本来の状態に戻る」ということです。
「般若心経」を「知る」ことではなく、「般若心経」そのものに「成る」ことが目的なのです。願い求めることは、自分にこだわること、自分を握ることになってしまい、「般若心経」に説かれている人間本来の姿を表現することを妨げます。だから、理屈抜きに「行」を繰り返す。自分の生活のなかで、繰り返し行う。それがすべてであり、それで十分なのです。

このように、「超写経」のコンセプトは、道を求める仏教者のそれではなく、この現世にあって、生身の世の中にあって、大自然のリズムに帰ることで、毎日が楽しく、繁栄に満ち、生きていることに感謝できる、自然に感謝している自分になることに尽きます。
もしあなたが、この自分を変えるために、もっと良い運気をつかむために、巷にあふれるノウハウを試みるのは、この自然のリズムをつかんだ後でも遅くはないはずです。いえ、自然のリズムさえつかむことができたなら、どんなノウハウをも活かせるあなたになっているはずです。

もちろん、人間ですから、超写経を始めても最初のうちは、「お金がない」「病気が治りたい」というようなことが気になるでしょう。しかし、それはそれとして、ひたすら繰り返すことが大切です。
「生かされている」ことを素直に喜ぶ。落書きでもするように、ただただひたすら書きつづける。
そうすれば、いつの間にか、体のなかにあるものが出てくるようになります。
それは、ただ繰り返し行っているうちに、大自然とリズムが合ってくるからです。大自然の法則とは「ただ繰り返す」ですから、ただ「般若天行」を繰り返していると、その大自然の法則と合ってきます。あなた自身が大自然そのものとなるのです。
大自然とリズムが合えば、いつの間にか、体のなかから無性に「喜び」がわいてくるようになります。
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